今日も生きてる

文化系トークラジオLife10/26/08「ぼくたちの失敗学」放送レス1


レスというか下記のメールを書かれた方への届かないかもしれないけど、いちおうここ公開スペースだから書いておくよ、っていう私信というか私感というか連想自分語りです。
ポッドキャストPart2の配信であった

「中学1年の頃同級生のイジメを止めようとして結果的には止められず、自分もイジメの対象になり対人恐怖症気味になりました。善悪から考えると正しかったと思いますが、対人恐怖症気味になってしまった事を考えると、人生の大きな失敗だったと思います。失敗を糧に出来ればいいのですが、それがトラウマになってしまって立ち直れないときはどうすればいいんでしょうかね?」(ラジオネームめぐみさん)
 →止めなかったらもっと後悔したはず(津田)
 →失敗の経験を切り離して考えても良いのでは?(charlie)


ていうので、思うことがあります。重たい内容なので畳みます。
自分も小学生の時3年生から5年生までたっぷり3年間、結構凄惨ないじめをクラスの過半数の男女から受けておったからです。5,6人に囲まれてボコボコにされたり、そういう風にリンチされてる中でみぞおち蹴られたり、遊び半分で間接ひねらりたり、百科事典級の本で頭ぶたれたりとか、そういうのが日常茶飯事でした。私は小学生ながらに意地があって、無抵抗不服従運動にこだわりを持っており、「絶対にこのような理不尽な仕打ちをほどこす人間と同じ土俵に私は立たない」と心に決めており、神経を麻痺させて完無視、されるがままを突き通していたのですが、ある日、酷い犯行現場を初めて見た同じクラスの女の子が「何やってんの?皆おかしいよ?」っていう当たり前のことを言って私を保健室に連れてってくれてくれたんですね。それで、担任とかにも「Emちゃんがいじめられてます」とかいってくれて。一応話し合いとか開かれたりもしました。まあやっぱりそんなんではこのリスナーの方の例と一緒でイジメは終わらなかったし、告げ口くらいじゃ事態は変わらないって分かってたから、私だってそうしなかったんですけど。


でもね、結果的には状況が変わらなくても、自分のために、その子が立ち上がって、正しい事を言ってくれたのは嬉しくって、今でも、私の暗黒の小学校時代の思い出の中で、彼女は数少ない美しく輝いている人なんですよ。私のいたクラスは学級崩壊っていうか、生徒の態度が悪すぎて授業もまともに行えないとか、盗難とか、もうあまりにも問題ありすぎて任期が終わる前に担任がクビになるほどの酷い状況だったんで、完全にほぼ総数が情緒不安定で、バトルロワイヤルで、狂ってて、私以外にもいじめられた人はいたんだけど*1、私だって他人のことは見てみぬ振りをしてた訳です。だから自分としてはあの経験はかなり一種の集団恐慌状態、小規模戦時中とか小規模ナチスドイツみたいなことになってた、と理解していて、いじめに参加していた人とかにも恨みとかよりも同情しているんですね。人間の心って弱いよなー、そんで弱さから、逃げたいっていう気持ちとか、警戒心も生まれるし、攻撃性も生まれるよなーって感じに理解できるし*2、自分のことも、周囲のことも、許せるし、受け入れられる(一種、一回距離をおいて経験を客観視して分析して・・という過程を経て糧にする、というか)。加害者の子たちだって人を攻撃せずにいられなかったのは、心が未熟で弱いだけだったんだなと。


ただ、私にとっては、担任含めて30人強が狂っていた中でも、たかが10歳だか11歳だかの少女が真っ当な正義感と義侠心を維持して発揮して立ち上がったって事実がさ、世の中捨てたもんじゃないじゃないという認識として今心に残っているわけです。そこにこの世の美徳と希望があるじゃないですか。やっぱりどんな歴史的大虐殺の裏にも、何の変哲もない小市民が、一世一代の勇気を振り絞って非差別民の命を救ったりしてるわけじゃないですか。でもその挑戦の全ての例がもちろん成功するわけじゃない。しかし、その志が人々の中に存在することが美しさであり、希望なんですよ。
リスナーの方はいじめを止められなかった。でもそのいじられていた子の心の中の世界を変えたかもしれないですよ。人の善意を信じられる可能性を、少しだけ増やしたかもしれないですよ。事実的状況は変わらなくても、その人の心の中に、記憶に、未来に、一筋の光を残したかもしれないですよ。私にとってあの女の子が、そういう輝きを残して行ったように。


(追記)
津田さん、charlie*3のアドバイスもそれぞれに良かったんですけど、佐々木敦さんの発言が自分の思ったことに一番近かったので、若干一部要約して書き起こしました。
佐々木さん
「めぐみさんとアラウカリヤさん*4も、お二人とも、自分たちの、過去の振る舞いっていうものを、自分自身が今振り返っても、失敗だっていう風には思ってない訳じゃないじゃないですか。でも自分以外の人達は、それを失敗だというような、態度をとっていたから今でもそれがトラウマになってるって事でしょ。単に周りの人達が、それを失敗だとしか思えないような態度をとっていたに過ぎないのであれば、めぐみさんとかは、自信持っていいと思うわけ。あの、ようするに、高潔であって欲しいと思うわけ。たとえば、自分以外の全員が右に行っても、自分だけは、真ん中に座ってたみたいなことっていうのは、むしろ、自信に転化していい事だと思うんですよ。ただそういう風に思えないような、色んな状況があるってことも事実かもしれないけど、そこ押してね(←ココ力強く!)、『私は間違っていなかった』ていうことを自信を持って自分に対して言い切れるようにしてほしいと思う次第です」


具体的な話に落とし込むと安っぽくなっちゃうかもしれませんけど、たとえば「私は人間関係とか後先の損得の空気が読めない子なのかも」とかいう風に捉えたら失敗談かもしれないですけど、「人に流されませんでした武勇伝」として捉えれば、それこそ面接とか自己PRのネタとしてだって十分使えますよね。だって言い換えたら、「他の社員がだれてサボるような現場でもその人だったら付和雷同せずに真面目に働くかもしれない」、とかそういう意識が高いアピールだって出来るわけですよ、たとえばの話。
→さらに長い追記を別記事で書きました『コミュニケーションの限界と私たちが他人である事についてよく考えてる

*1:私程苛烈に暴力を受けていたひとはあまりいなかったけど/だって他の人は皆そこまで行く前に泣いたりしてて、でも私耐えちゃうからエスカレートしてた

*2:動物は自分と異質なもの/敵と出会った時「戦う・攻撃する」という選択か、「恐怖し逃走する」という選択かを瞬時に判断する本能があるのです

*3:鈴木謙介

*4:めぐみさんの次に投稿を読まれた方。海外ボランティアに挑戦、帰国後の今就職活動しているが、自分にとっては一世一代の決断であった海外ボランティアの経験を否定される事もありという話で