今日も生きてる

さらに追記する大川先生男前バナシ


続・大川公一がアツイ! - 今日も生きてるからの続き
『竹林の隠者 富士正晴の生涯』あとがきより
「(中略:富士正晴の著作を読んで)(富士氏の住む)竹林の中のボロ家にだけ、燦々(さんさん)と春の陽光が照りつけているような印象だった。世俗から隔絶した世界であるのに、そこだけに豊かな何かがあると直観的に読み取ったのである。妙にまぶしく、永遠というものに触れたような気がして、そこに居座っている富士正晴という人物が、私の長らく探し求めていた師であると勝手に決めこんでしまったのだった。」

「初めて葉書をいただいた日の興奮や、たった一度だけ電話を受けた時の竦む(すくむ)ような思いも忘れられない。家人は笑っていった、今のは富士さんからの電話でしょう、あんな応対は今まで聞いたこともないから、と。隣室に居たのにである。」

「富士は今でも私の心の内に生きていて、草野心平の『死んだら死んだで生きてゆく』という詩句のように、私を内側から生かしめ、この文章を書かせているのである。」

『攻めダルマ蔦さん』あとがきより
「坂を登り、丘の上の池田高校の校門をくぐった。ほんの少しばかり歩くとグラウンドがある。テレビで見て想像していたものよりも、かなり狭い。こんなところで、あの強打の池高チームが生まれたのか。そう思うと、私の胸はキュンとした。」
「私は一ファンとして遠くから蔦監督を仰ぎ見ていただけなのだが、近くにいないからこそ見えるところもある、と思う。拙著を世に問う意味もそこにある。」

↑こういうの読むと心意気が美しすぎてもう泣きそう!

大川先生との交流年表:
2001高校卒業後、アメリカにて大川先生にお便りを書く

2002冬、年賀状を貰う

2002夏、「帰国する時お会いしてよろしいですか」と訪ねる。
初デートは成城マダムンムン御用達の風月堂でした。あそこ2階が喫茶店になっているんですね。そんなハイソなとこでケーキと紅茶を頂きながらお話を。
超緊張して、自分の文章を褒めてもらってさらに恐縮、むしろばんばん色々褒められて超絶恐縮。何話したか緊張のあまり覚えてない。まあ人生の哲学とか、文学とかそういう話だろう。星野道夫富士正晴坂口安吾池澤夏樹とか。そんで「来年20歳になるから一緒にお酒が飲めますね」って言われてキュン死にしました!!

2003夏 帰国するのでまたお会いしましょう、と連絡すると、「病気をして療養中なので、外出を止められているんだよ。うちにお昼でも食べにきなさい」と言われ、あたし「!!!!!自宅訪問!!書生みたい!!ギャーーー」思って大喜びで行ってきた。

まず大川先生のびっちりスーツ以外の姿を初めて見てウヒャーー。 いや、基本スーツ好きだけども、それしか見た事ないと逆に新鮮てやつで。
素敵な家見てウヒャーーーー。本意外に少ないな、と疑問に思って訪ねたら別宅書庫発言にウヒャー。奥さん見て、息子見て(以下略)
なんと食べたのはフレッシュネス・バーガーのテイクアウト!!大川先生好きなんだって!!昭和の書生気分だったのにいきなりナウでショック。 でもかわいげ!

「やばい私今大川先生と自宅でハンバーガー食べてるやばい私今大川先生と自宅でハンバーガー食べてるやばい私今大川先生と自宅でハンバーガー食べてる」とかもう極度の興奮と緊張状態ですよ。だって憧れの先生ですよ。

そんな熱に浮かされた状態で、美術とかヨーロッパの話を5時間ほどぶっ通しで!ドガとかゴッホとかピカソとかデュシャンとか近代をずらーっと。こんなに長居するのは失礼なんじゃないかって思いながらも、自分で自分を止められなくなってしまった。

あの、自分より賢くて知識の差も半端じゃない人に、どーにかアホだと思われないようにビビりながらも話して、色々教えてもらうのって最高にエキサイティングなんだよ!私にとって。しかも大川先生も面白い話が止まらないから、ついついもっと聞きたい話したいってなっちゃって延々続いただよ。

その後母と約束があったのに思いっきり遅刻して怒られて何してたか話して、「あんたそんなおじいさんの話に夢中になって動けなくなるなんて変な子ねえ」みたいなこと言われた(笑)いや実際動けなかった!メモとかとってればよかったなあ。一回聞いただけじゃ覚えられない講義でした。

2004夏 帰国したけど大低迷中だったので会わす顔なく敢えなく会えなく面会断念。