今日も生きてる

落語家に敬称つけますか問題

ブログで寄席や落語をテーマにしているものが増えたが、落語家の芸名に敬称として「師匠(師)」を付けるのが流行っているようだ。私のように呼び捨てにしているのは今や少数派である。(中略)
三人称で語る場合、例えば柳家喬太郎がさん喬を師匠、先代の小さんを大師匠と呼ぶのは当然だが、同業や弟子でもない人が、芸名に敬称を付ける必要があるのだろうか。
引用:http://d.hatena.ne.jp/baikun_an/経由【寄席な人々】落語家に「師匠」付けはどうもネ: HOME★9(ほめ・く)

まず断っておきますが、「三人称的文脈で呼び捨て」=ほめくさんの立場を非難する気持ちはありません。自分も文脈的に呼びかけというより名詞的な使い方で人名を書く場合は敬称つけない時があります。


以下は梅薫庵さんとこのコメントに書いた敬称問題に対するお返事抜粋&微修正。私は真打以上の落語家を師匠と呼びます。若い真打の場合だと気分で「さん」づけになる事もありますが、家元や小三治師匠など名人級の方々のことは師匠が多い。色物さんにも「さん付け」しますが、正楽師匠クラスだとやっぱり師匠です。ネットに文章を書く以上はご本人や関係者にも読まれることを想定しているので、その人と面と向かって話す時に払うであろう最低限の礼を逸してはいけないと思っています*1


また、私は落語家さんを崇拝する感情もありつつ、若手の人には一人称的に感情移入している気持ちがあるので、彼らが尊敬している人間を呼び捨てにするのは抵抗があります。だから「談志さん」ましてや「談志」呼ばわりなどありえないのです。逆に今生きている人も直接知らないような昔の落語家のことは、「圓朝」などと呼び捨てに出来ます。作家、芸能人などまったく関連のない人のことを呼び捨てに出来ても、もし直接の知り合いであったら、または自分の友達のお父さんであったら、その人のことを呼び捨てに出来ないであろう心理と一緒です。他の有名人の場合でも、たぶん私は「○○の新刊読んで」とか言うと思うけれど、「インタビューで○○さんがこう言ってた」という場合「さん」づけにするとおもいます。前者は、作品として見ていて、後者は生の人間として見ているからだと思います*2。この点で、大昔の落語家も私にとってはモノ化しているのでしょう。


好意を持ってるという文脈での呼び捨て、あだ名、ちゃんづけ等はアリだと思います。自分も二ツ目以下の頃から知っていて「〜さん」と呼んでいた方の事は、師匠になっても親しみをこめて引き続き「さん」づけで呼ぶと思いますし、たぶんご本人的にも以前「〜さん」だった人から「〜師匠」と呼ばれたら変な感じでしょうし。


ちなみに上方では名人級にならないと弟子以外から師匠とは呼ばれないそうなので、若手の人を師匠と呼ぶのは違和感があるみたいです。東京みたいに真打=師匠というはっきりした転換点がないですからね。あと実は、厳密にいうとお弟子さんは自分の師匠○○のことを話す時、単に「師匠」や「うちの○○」とは言っても「○○師匠」とは言わない、「○○師匠」というのはよその師匠を指す場合のみ、という話を聞いた事があります。社外の人と話す時に上司をさして「うちの山田が」「うちの部長が」といっても山田部長に対して失礼でないのと同じ道理の慣習みたいです。よく注意してないと気がつかないのですが、実際これを知ってから落語家さんと話したり、インタビューを読んだり、ブログを読んだりしてみると、本当に自分の師匠を「○○師匠」とは言ってないですよ。

*1:好意を前提とした妄想エントリは別として..

*2:前記した「三人称的文脈」や「名詞としての人名」は前者、「呼びかけ」は後者です