今日も生きてる

志らく百席

平成18年5月7日 於:横浜にぎわい座

ーお番組ー
立川志ら乃 『反対俥』
立川志らく 『時そば
立川志らく 『小言幸兵衛』
<お仲入り>
ダメじゃん小出 ジャグリング
立川志らく 『お藤松五郎』


・開口一番は志ら乃さん。満員御礼で行けなかった志らく四季の会へ行った仲間から、『反対俥』の好評を聞いていたので、マクラが終わって演目が分かった時は思わず「反対俥きた!」と落語メモに書きなぐる。


ああーヤバイ、零コンマの速さで連射されるマシンガンのようなくすぐりに蜂の巣!例え全部受け止め切れなくても、この圧倒される感じがたまらんのよ。ヘンな話、この数日前に他の人で『予習』してたから、どんなに速くても筋は追いつけるし、どのくすぐりが志ら乃謹製の弾なのか判別出来てよかったな、とか不埒なことさえ考えたエッヘッヘ。


終演後、仲間とのお茶会では皆メモを片手に、「ああ、そんなセリフもあった、あった!」なんて膝打ち白熱討議、第三者からはまったく意味不明な『おさらい会』が繰り広げられていたくらい盛り上がりました。そういえば、今考えるとこの会から、チーム志らく派の間で『おさらい会』という言葉が定着した気がします。まるで放課後集まって勉強している受験生のごとく、真剣にくすぐりを確認し合っていた様子が我ながら可笑しかったからです。


「お年寄りには花をたむけて」「地に足がついて嬉しいのはお前と*****くらいだよ!」「二人の夏の出来事が淡い想い出に変わる頃」「なんだ、化粧落ちたらババアか!」(←このへん、特に受信忙し過ぎて聞き取り切れなかったのが残念)「修理に300マルク」「マルクでいろいろ言う会じゃないんだから」志ら乃さんの発想には本気で感嘆する。四六時中強迫神経的にギャグを考えているらしいというのもダテではない。


志らくさん、マクラで「人間は自己暗示で変わる」という話。「『オレは天才だ、天才だ』(←家元の真似)、と思っていればそうなってくるし、『オレは名人だ、名人だ』(←円楽の真似)と思っていればそういう風になってくるもの。『下手だ、下手だ』と周りから言われれば○ぶ平さんのようになるもんですね。」わはは、さすが、ラジオで時事ネタ禁止令が出ている志らくさんだよ!


ネタは『時そば』で、いーー食べっぷり!ああ、そば食べたい!と思った。でも、「食い方はあんまり上手くなかったけど、そばは旨かったよ!」なんて自分で言っちゃうの。後攻の真似する男の方は数を数えながら混乱して、「ドウナッテルンデスカー」と外人なまりが出るわ、まずい方のそば屋も出身地不明でめちゃくちゃ言って、男がそばのヘンな所をつっこむ度、それに合わせて都合のいい訛りが出る。黒いんだけど、ごめん、笑っちゃうよ!!


しかも神懸かり的なアドリブが更に出る出る。まずい方のそば屋の屋号は「はずれ屋」なんてもんじゃなく、○○で、なのに本名が××・・!!この衝撃は実際高座で聞いてほしい事ひとしお。これをその場で思いつくセンスは他じゃ有り得ない!そして、「あっ」と声を出し店主を脇見させてる間にまずいそばは捨てられちゃうのだった。


・マクラで5/3の『あの事件』と小言について軽く振る。
「先日はここにぎわい座で笑志の会のゲストに師匠が出て、野次が飛んだせいで怒って高座を途中で降りちゃったらしいですね。ここ15年くらいはそんな事なかったんだけど、私が二ツ目のころはそういう事も日常茶飯事でしたね。最近はしばらくなかったのに・・笑志も不運な男だね・・」


「大師匠の小さんはほとんど小言を言わない人だったそうで、その弟子の談志は『小言は愛情』と、のべつ言っている。その弟子の私は弟子にあんまり小言を言わないので、花緑いわく『弟子の育て方はおじいちゃんに似てる』なんて言われています。まあ、孫が言う位だから本当なんでしょう」


『小言幸兵衛』、改め、志らく版の幸兵衛さんは『小言』というよりも、難癖が奇想天外すぎて『妄想幸兵衛』。超特急で繰り広げられる小言妄想がおっかしくて、おっかしくて、しょーがない。前半奥さんとのやりとりでは「血管切れそうな位ぞうきんをしぼれ」「ああ!そんな所にしぼったぞうきん置いといて、私がねじりパンと間違えて食べちゃったらどうするんだ!」てありえないから!!ねじりパンという音のバカバカしさもすごい破壊力だ。


家を借りにきた仕立て屋さんの折り目正しさに最初は全然小言が言えない幸兵衛さん。むしろ「『あたしと妻と倅がおります』、以上報告終わり、いいねーっ!」などと褒めまくる。しかしこの倅とお向かいの一人娘との悲恋妄想が始まると、「やっと小言の糸口をつかんだ!小言幸兵衛参上っ!!」というシビレる名文句でめくるめく妄想啖呵の大スペクタクルが始まるのだった!


秀逸なフレーズ目白押しで、「〜〜なりますも、赤塚も、東武東上線もねえんだ!」とか、心中劇の芝居には「俺も語りで友情出演だ!」とか、
幸兵衛「何?!せがれの名前は『××』!!?しかも、ひらがなで!なんてぇ名前をつけたんだ!心中といえば松五郎とか、徳三郎だろうが!」
仕立て屋「へえっ、赤ん坊の頃に××××してたんで『××』と名をつけました」
幸兵衛「大人になった時のことを考えろよ!」。
(↑この倅の名前は、ホンッットーーに衝・撃・的!)


他の人の幸兵衛と一線を画しているのは、この幸兵衛がけして単なるイジワルじいさんに見えず、なんだか愛らしいバカバカしさがある所。幸兵衛さんはけして悪気があってクドクド言ってるんじゃなく、むしろ人が良すぎて妄想を爆発させ、ありがた迷惑なお節介焼きを周りにこすり当てている感じ。


とくに前半の奥さんとのやりとりでは、奥さんの方がとっても穏やかで気だてがいいせいで、ガミガミしている幸兵衛をして、それにまったく動じない天然ボケのかわいいおばあちゃん、という夫婦像が、ものすごく微笑ましい。


後日『厩火事』のマクラで聞いたのだが、志らくさん曰く、
「夫婦は似るといいますが、家元のお上さんは家元と似ても似つかず、世間知らずでおっとりしているというか、『パパ、最近知ったんだけど、太陽って東から昇るのね』なんて言っちゃう人で、家元も口では『まったく!あいつは何にも知らなくて困る』なんて言いながら、このお上さんを非常に愛して、可愛がっている。」との事。私の中では、この家元のお上さんのイメージと『小言幸兵衛』のお上さんが勝手につながっていて、幸兵衛夫妻もそんないい塩梅の夫婦なんだろうなあと想像する。


・『お藤松五郎』志らくさんの艶話初体験でドギマギと身もだえる。艶っぽい芝居を見慣れてない人のそういう芝居をたまに見るとこっちが照れてしまう。といっても本筋は、シェイクスピアギリシア悲劇ばりに積み木崩しな悲恋の物語。主人公・松五郎に対して悪役の旦那が牽制をかける時なんか、本当に冷たい刃を当てられたように怖い緊迫感がある。


でもおっかさんが怒るときには「いつもの発作が!」と言いながらヘビのようにチロチロと舌を出したりもする。これは志らくさんお得意のくすぐりで、『猫久』の時も出てくる怒ってる人の表現。妖怪か!


物語の最後は落語にはまずそうそうないと思われる、とことん救いがなくて殺伐として、絶望的な結末を迎える。この最後は志らくさんのオリジナルアレンジで、円生演出だと、物語は結末を与えられずに松五郎がお藤を探しに行くところで終わるらしい。しかし、それだと続きが気になって仕方ないので、志らくさんが付け足したそうだ。「ゴールデンウィークの終わりにとっても後味の悪い噺でしたが、後味が悪くてもこの最後の方が噺に凄みが出るし、物語としては妥当に完結しているのでお客もすっきりするでしょう」などと解説していた。


この一席、聞いたばっかりの時はあんまりな最後に「うーん」と思ったけど、後から思い返すと情景描写の鮮やかさに圧倒された気持ちが残り、改めて志らく師匠の他に類を見ない映像喚起性に恐れ入る。気持ちのいい噺ではないけれど、鬼気迫る迫力がじつに忘れがたい高座だった。


ついでに、「最近素晴らしい映画を観たので、私の噺が後味悪かったら、これを見て感動して下さい」と、6月号の小説新潮にレビューを書いた『玲玲(リンリン)の電影日記』をお口直しにご推挙。その日帰ったらすぐ志らく仲間皆のbloc予定表にこの映画の上映スケジュールが組み込まれていたので、志らくさんの局所的な影響力と、みんなの素直な志らく愛に笑った。