今日も生きてる

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理論武装された主張ではなくって、現時点でも「ぐむむ...」と考え中の思考記録として


色々書いておきます。例の件が引き金となって落語・落語ファン・インターネット周辺問題、個人的倫理問題に関して色々考え、ある意味ではそこで覚えたたくさんの懸念をあの方の関連記事として書いてしまい、結果的にそれが全て誤爆個人攻撃したような感じになってしまい、全部消さざるをえなくなったので、別建ての思考記録として覚え書きにしておきます。何か私に対してご意見ご感想がある場合は原則メールフォームでお願いします。あと、あえて超絶長い一つの日記にしたのは、色々な意味でセンシティブな話になると思うので、「これだけ長い文を書いても真面目に吟味して読んでくれるくらいの心意気を持っている方々に宛てて書きました」という人払いの予防線でもあります。

  • 愛と誠と真理追求が共存できない難しさとか、Aという立場を思い遣るためにBという立場に思い遣りを欠くという矛盾とか思ってぐむぐむしました...。『正論は正しいんだよ、だけど正しくないんだ』春風亭小朝著『苦悩する落語』より。落語界の現状に危機感を覚えて色々な改革を押し進めようとしている小朝師匠に対して、ある幹部の方がおっしゃった言葉だそうです。この言葉が今染みています・・。
  • 「これは客観的にみて正論かどうか」とか、「客観的にみてこういう事はみっともないな、大人げないな、志が低いな、甘ったれてるな」とか、自分に対してそういう厳しい目は持ちたいと思うし、それが自分にとって、誠実さを追求するって理想なんだけど、それを他人に求めてはいけないなとつくづく思う。それが出来てると思う他人を「かっこいいなぁ」とか「尊敬するなあ」ってポジティブに評価する事とはまた別として。人の優しさや強さを勝手に期待するのは優しくないんだと思う。この人は信頼できるっぽいな?って思っても、「この人は信頼できるっぽいからうれしいな」ていう有り難い出来事として受け取るべきっていうか。がっかりする自由はあるかもしれないけど、怒ったり、傷ついたりしちゃだめなんだ。俯瞰的に見た相手の利益の為にはその人の行動や言動をとやかくいった方が優しさだったり、自分が何を考えてるかを相手から思い遣られてる立場だったら、それを分かりやすく素直に表すのが誠実さだったりもするので、そのへんは臨機応変にしなきゃいけないんだけど。

「そもそも恋愛的に好きな落語に対して研究目線で小難しい事考えるのはけして楽しい作業ではない、とも思うのですが、まあどうせ何かトピックを選んで、すごく色々調べて頭のリソースを使うなら、好きな物にしようかという感じ」「わたしは一刻も早く学位を取得し『普通の落語ファン(「普通の女の子に戻ります」ニュアンス)』としてミーハー落語通いを謳歌したいんです。夢は落語通いする有閑マダムです。」

と書きました。


それは本心です。それも本心なのですが、しかし、その分析が正しいかどうかは別として、意識の持ちようという意味では、「演者と落語界への本当の優しさって何じゃろか」とかいう目線の話も、やっぱり考えずにはいられないことを認めます。「落語家・落語界全体の発展・利益」を過去・現在・未来全部ひっくるめて意識せずにはいられない自分がいます。元々の自分の業として、オカン的心配ビジョン以外にもたぶん、そう、いうならばオトン的ビジネスビジョン(性差別でなく、わかりやすいたとえとして、ね)もウズウズするし、オタク的・学徒的な知識欲求・分析欲求・資料保存欲求とか色んな視点がうずまいて、「素直に楽しむのが一番」なんて言ってられないというか、言ったらそれは嘘になる。「素直ないいお客さん」に憧れつつ、エリーティズムに陥る事も恐れつつ。

  • 卒論日記を書いた時には「もしかしたらアレがアレになるかもしれないけど」と誤摩化した部分の話。まだ、決まった事ではないのですが、実際、いくつかある就職志望先は落語に関連した仕事をしている筋もあり、そうでなくても、今このままいくと文化事業系の仕事に就く可能性が高いので、こういう文化事業周辺問題に関しては、いち消費者の思い入れという意識以外にも、将来のプロとして本気で考えるべきだという意識を持っています(重ね重ねの留意としてその思考作業に人を巻き込むことは正当化しません)。
  • 自分はネット上で書く事に関しては、「責任はとれないけど覚悟はしているよ」と思っています。「責任はとれない」ってどういう意味かっていうと、「あなたの記事を読んで全治5年の○○病になりました」とか、トンデモな言いがかりってのは、いくらでも言えてしまうので、「責任はとれないよ」なんです。でも「覚悟はしているよ」っていうのは、私がその主張をトンデモじゃないと判断した場合、「私のせいですね。何もできないけど、ごめんなさい。」とか、「何て事をしてしまったんだろう・・もうネット人として死にたいブーー!!」とか思って1週間寝込んだりとかって大ダメージを受けたり、謝ったり、哀しく思ったり、真面目に反省したり、具体的に何か自分も損害を受けたりする事を引き受けますよ、っていう事です。
  • ちなみに、ある時期よりここの日記は就職志望先の方々や近隣業界関係者に知られています。それ以前より、ネット人脈とオフの人間関係を同一にしてきたので、十分誠実にとりくんできたつもりですが、いよいよ「ネットで何かあったら実社会的に結構ヤバイんすよ」覚悟を持って書いています。皆さんお忙しいので頻繁に読まれているわけじゃないと思いますが、アドレスは知られています。会社バレどころじゃない*1、入る前からバレている日記です!
  • 以下、削除した日記から文章を書き直して考えた事を再編成します。ここに書く意見やら分析はみんな生意気で間違っているかもしれませんが、上記留意のように、主張というより、考えあぐねている思考プロセスの公開だと思ってください。


*落語会でのメモとりとブログ感想書きの是非議論

  • 明らかに騒音、明らかに他人の視界をさえぎるレベルでのメモとり=マナー違反っていうのは満場一致だと思う(感覚に個人差あり、席の具合や会場によっても事情が違うところは判断が難しいけど)
  • 私としてはそれ程過剰でなければ個人の観賞スタイルの自由として許されるべきだと思う。聞き慣れない言葉をメモし、初めて聞いた噺の歴史背景や噺家について家に帰って調べる。そういう観客の積極的学習は落語ファンになるにあたりとても楽しい作業だと思うから。それに、「落研の学生がうるさいくらいメモを最前列でとってて」というような逸話はブログ時代以前からある。必ずしもブログを書く事だけがそういう人たちの目的ではないだろう。またメモ書きの習慣に慣れると、それはそれで、メモをとりながらでも、ちゃんと笑ったり、感動したり出来るようになるし、どんな楽しみ方を選ぶかはそのお客さん個人の自由。
  • 「『仕事』とか正統な必要性があればいいのか?」

「必要性」を考えると、顔が知られてない大学とかの研究者やマスコミ関係の人かもしれないし、論文書いてる学生かもしれないし、落語やる方の趣味もあって参考にしたい人とか、実はまだ入ってないけど落語家志望の人とか、色々な「こういう志や必要に駆られてだったら人情的に許せますよね」っていう可能性があるので、個人的知り合いじゃない限り、周りは判断不可能。

  • あとこういう時よく、「昔は良かった今はダメ」系の話を安易にする人がいるけど、本当に昔の寄席なんかは寝っ転がりながら聞けたんだし、もっとケの場所だったし、よっぽど今より態度悪い人はいっぱい居たと思う。ここ最近の話で言えば、落語が再興して観客の絶対数が増え、色んな種類の人が来るようになり、またそれがブログ時代と重なったから、メモ書き=ブロガーうざいがヒトマトメになって批判されやすいだけではないか。
  • 個人的には、「落語会」に限らず色んな人の経験が誰でも読める場所に電子資料化される意義はあると思っています。「同時代に生きているが地理的・時間的にその会に行けなかった人」の事もそうですけど、インターネットは公開した情報がどんどん残っていき*2、後から検索可能なこともすごいと思っています。来年その落語家さんのファンになった人、10年後にファンになった人、はたまた100年後にファンになった人でも「録音やDVDで拾われていない『すきな人の過去の断片」を遡れる訳です・・。
  • 100年の話は飛躍しすぎに聞こえるかもしれませんが、私たちが明治の落語家の逸話などをささいな事でも面白く読んだり、「別に面白くない事実の羅列でも資料的に興味深い」と思ったり、当時はまったくの一般人にすぎない人たちが生きていた痕跡を、今や歴史ロマンを感じて「へー」と思ったりする事を考えると、「2008年の世界/○月○日の△さんが落語を口演していた」という情報を有り難がる人はきっといます(100年後の私みたいのが)。昔だったら、ことこういった文化的な事に関してはいわゆる限られたプロの文筆家の書いたものしか、時間と距離を飛び越えてアクセスする事が出来なかったわけです。でも今はそのアクセスできる人類累積集合知がどんどん増えている。それが超マニアックな希求であればあるほど、「誰かの心を捉えるもの」が発生する確率が上がるに超した事は無いし、読みたくない記事は読まなきゃいいので、落語感想書きの活発化を私は喜んでいます。
  • メモとりと落語感想書きを擁護はしても、「ブログ読めるから行かなくていいや」は擁護しません。まあ、でも、本当にそんなことをファンに思わせるなら、それはブログ書きじゃなくて演者の責任だと思います。落語界のオカンとしては、全ての観客が演者に対して愛と敬意を持っていて欲しいという欲はありますが、愛の形は人それぞれで、明らかに迷惑行為である場合以外、私はそれにいちゃもんをつけたくありません。


**「メモとり」がいるとやりにくいとか、「ブログ書き」が嫌だと公言する演者についての懸念、あと最低限のマナーを守ることは当然の義務として、あまりにも落語家の「やりやすさ」を考える観客ばっかりてのも何か変な事態なんじゃないかという懸念

  • 前に、「落語家に対してやたらと上から目線の落語ファンがうざい」と書き、アンチ「お客様は神様」理論とさえ銘打ちました。それは、1)ファンぶってるのに上から目線という矛盾、2)ファンぶってるのに常識的な大人としてのマナーさえ欠いてる人がいる、と思ったからです。この記事に直接書いたわけではありませんが、私は「むしろ私にとっては落語家が神様」とも書いてます。だからといって、それは私感に過ぎないのは重々承知なので、「あなたも落語家の方が偉いと思え」と主張する訳ではありません。とにかくファンなのに「上から目線」は矛盾してると言いたかった。
  • でも、落語の観客、皆が皆、自分みたいだったら気持ち悪いとも思います。「がんばってる前座かわいいわーおじいちゃんも最高だわー皆大好きだわー」とかオカン/孫目線の客ばっかりで、「演者に好かれたい」とか「演者が傷ついたらどうしよう」とか、「演者がやりにくいんじゃないか」を考える客ばっかりだったら、演者の為にならないと思います。芸能として、どんな人か分からない不特定多数の客と勝負する芸人として不健全です。
  • 極端な例かもしれませんが、以前、推している落語家さんが、自分の日記で、自分をつまらないと書いたお客さんのブログをさらして文句を言っていてがっかりした事がありました。いわく、「木戸銭払ったお客に文句いわれるならともかく、招待だったのに文句いわれた」と。これは、心の中でどんなに感情的に思っても、プロが言ってはいけない事だと思いました。言い換えれば、「無料の会なら手を抜いてもいい」と同じではないかと思ったからです。どんな状況下でも、プロなら納得させられなかった自分を恥じて欲しかった。もし、情緒的にそう思えなかったとしても、自分の日記を読みに来るファン=自分に元々同調的な事が前提である人々を前に、素人さんのブログを悪し様にさらすってのは卑怯だし、甘ったれてる。ファンがその落語家の悪口を聞いてイラッとくるのはいいんですよ、ファンだから。でも本人が客に甘えたら、本人の為にならない。高潔であってほしかった。お山の大将として、居心地の良さに甘んじないで、その敗北を抱きしめて欲しかったです*3
  • 「今日のお客はやりにくい」とか、そういうのだって人として「思う」のは当然でしょう。でも、客に「優しくしてください」「気を遣ってください」って本気で言っちゃったり*4、お客の態度に文句をつけるのは*5どうかと思う。小心者が味な人もいるから、全員が全員、そんなに志高くなくてもいいと思うけど、そんな器のちっちゃい落語家ばかりだったとしたら、落語界の未来は暗い気がします。私は好きな人から好かれたいし、出来れば自分の楽しみと「邪魔したくない」を両立せんべくあらゆる想像力を働かせてるけど、客が全員一丸となって私だったらそれは何かの宗教です!芸能じゃない。私の個人的な好き嫌いは別として、落語家と落語界の発展の為には、厳しい人、甘い人、やりにくい人、観賞態度がちょっと変わってる人、あらゆる人がいて然るべきだと思います。
  • 演者が落語感想を書いているブログを読むなら、プロとして、どんな酷評でも、「露出増やしてくれてどうもー!」と流せるか、「今度納得させますから懲りずに来て下さいね!」と爽やかに言い切るくらい強かになれないのであれば、いっそまったく読まない方がいいでしょう。ある意味それも自己パフォーマンス管理努力だと思います。また、「今日はやりやすいお客様で」とポジティブな影響を語るのはともかく、「客の態度で芸の質が落ちる」と本気で言ってしまうとしたら、「自分の集中力がない」と言ってるようなものではないでしょうか。それがたとえ事実だとしても、未熟さとして己が恥ずかしく思い、戦うものであって、それをお客に吐露したら、試合放棄なんじゃないかなという気がします。
  • 「落語ってのは伝統的にうんぬん」とか「最近の客はマナーが悪い」ていうのに逃げるのは簡単な事なんです。江戸、明治、大正、昭和、それぞれの時代で先人達は時代の変化、そして常にいる「面倒な客」と勝負してきました。今を生きる人たちも同じように戦っていてほしいのです。「そうでなければ、先人達にも失礼ではないですか?」と、「伝統うんぬん」「名人うんぬん」をエクスキューズに使う方々には問いたいです。
  • たとえば、志ん朝師匠は『落語は一期一会なんだから』という意見をお持ちで映像化などを嫌っていましたが、もし志ん朝師匠のように観客を圧倒出来ない若手が、この言葉を引き合いに出して(ある意味では師の権威をかさにきて)、「ブログ書くためにメモとるな」とかいうとしたら、それは「逃げ」だと思うんですよね。観客の「ドキッ!野暮な客だと思われたくない」という心の隙間に甘えてるという意味で卑怯です。人として同情はしますが、「そっちこそ粋じゃないねえ」と思います。ただ、人間、「生理的にどうしても嫌だ!」ということはあるので*6、「落語はこうあるべきなんだからあなたもこうあるべき」という理論武装せずに、「私は嫌です宣言」をして、「(自分のことを嫌いなら強要できないが、という前提のもと)自分のファンならやめてください」というやり方も、「自分の魅力で客の行動を変えている」という意味で勝負してると思います。
  • もしも、演者の方が、「メモばっかりとっていて噺を全然集中して聞いてくれていない」(ように見える)から、イラッとくるのだとしたら、それってそのまま、「自分の噺が筆を止めるほど圧倒的なものじゃない」っていう劣等感の裏返しなわけで、「客の態度悪い」じゃなくて、「その筆噺で止めてやる!」と勝負するのが芸道ってモンじゃないでしょうか*7。観客がブログにネタバレ書くのが嫌なら、筋知られてても『やっぱり生は違うわ』って思わせてみせるのがプロの落語家としての心意気じゃないでしょうか。特に、そもそも、落語家はマクラでさえ繰り返し同じ話をする人がたくさんいるんですし、ブログを一切読む客じゃなくったって、リピーターを納得させなきゃいけないのが筋なんですから、それくらいの志の高さと謙虚さを持っていて欲しいです。まあ別に持ってなくてもいいですけど(存在を否定しないという意味で)、私は好きじゃないですね。


***何が「野暮」で「粋」か?とか、「伝統的には」とか「正統的には」の基準ってなんなのさという話

  • 昭和20-40年代の落語黄金時代なんて落語の歴史からしたらやはり一時代に過ぎないわけで、しかしその時代に落語が全国区芸能になり、伝統芸能化が進み、記録が大量に残るようになり、高齢化によってその時代の観客がまだたくさん生きている事が他の時代との大きな差。上記の理由で、この時点でスタンダードだったことが大体今の落語の「正統派」になってるんじゃないかな。もちろん、「この時点でスタンダード」になった事の多くは江戸に成立したものなんだけど、それ以外の、たまたまこの時代に盛り上がってた事も、まるで紀元前ン万年前からの真理のような扱いを受ける危険を感じます。
  • でも前回の落語ブームもつまるところ、戦後復興という背景およびTVとラジオという時代の変化に対応した事がブーム成立の大きな理由だったのだし、そもそもも生まれも大衆文化なのですから、絶えず時代の変化に対応していくのは不可欠。ただ、落語の魅力の一つが過去の再現性にある事も確かだし、もう伝統芸能としての落語を否定するのはナンセンスな域にきていると思うので、両輪バランスをとって多様化しつつ発展していくのが一番現実的な戦略でしょう。
  • 私は美術史専攻からいまアジア学専攻なのですけど、歴史を勉強してよく思うことは、一時の非常識は時間が経てば平気で高尚化してしまったりする事であり、何か一時代のものを正統性みたいな文脈で語るのはいかに下らないかという事です。落語でいえば、「情緒がある」とか、「やっぱりこのセリフは変えない方が味わい深い」、とかそういう感覚的文脈で褒めるのはいいと思いますし、マーケティングキャッチコピー的な意味で「正統派古典の旗手」とかいう言葉を便利なものとして使うのはいいと思いますけど、少なくとも演者本人に、「今あえて古典」「今あえて落語」をやる問題意識がなかったら好きじゃないなあと思います。「とにかく自分はこれがかっこいいと思うから」とかそういう素直な感覚的本音だったらそれはそれでいいんですけど、「俺は正統」とか思ってたら芸人・表現者として問題意識がなさすぎる気がします。


****ここ、今後も落語界・メディア・文化芸能・芸術とかの考え事メモとしてダラダラ使っていきますね。
追記12/6/2008

  • 上に展開した「伝統と正統性」に絶対的価値をみるのがいかにばからしいかについての関連記事:

インターネットについて考える。 - 今日も生きてる
オタの否定は文明の否定だ - 今日も生きてる

  • メモとりとブログ感想書きについての関連記事:

高座中にメモをとること、ネットに感想を書くことへの態度<マジ長文> - 今日も生きてる


「お客様」と供給側:

  • 動員がまず何よりもすごく大事なので、足を運んでくれるお客様は一番有り難い。けれども、さらに潜在的なものを含めた「動員と宣伝効果と演者への貢献」も有り難い。たとえば私にとっては、落語に興味を持ってくれて、落語を知ろうとしてくれてる、ていう意味では、お金を払わないで、P2PとかYouTubeとか図書館から借りたものからでも落語に触れてくれる人は、潜在的なお客様として大切だと思います。それに、落語のサイトとかブログを作って下さり、落語情報の露出を増やして下さる人も落語界に貢献してると思うし、そこまで数を通えなくても精神的・経済的に演者をサポートしてくれるお客様も有り難いと思います。それで、こういう長期的・俯瞰的な落語界の発展・利益を考えるっていう視点とかまでくると、他の落語ファンの人には理解してもらえない事も多いのかなと思う。
  • 私なんて『タイガー&ドラゴン』最初に見たのはアレ経由でしたし、更に遡ればきっかけは周囲の友人が軒並み「面白い!」とネット上の発言で言っていたから=ネット口コミでした。でもその後DVDBOX買う程のファンになったし、長期的に見たら落語にもTBSにもガンガン消費するいいお客になったわけですから、波及効果をあなどるべからずなんですよ。

  • 完全帰国して就職して収入が安定した折には、落語普及運動として「stilllifeの勝手に招待企画(自腹でチケット買って応募者を連れてく)」とかやろうかなと思ってます。草の根すぎますかね・・笑
  • 落語でも他のメディアでもそうだと思うんですが、「お客様に合わせるのが第一」っていうのはある意味ではより一段上のニーズを無視する危険性ってのがあって、それは内容を下げずに構造的な間口を下げつつお客様のことも教育するっていう意識がないといけないと思うんですよ(映画の和訳字幕の悲惨なレベルの低さとかイカンと思う)。あと、よく、「最近のお客はこらえ性がなくなってる」ていう言説があるけど、それってメディア・芸能供給側にも言える事なんじゃないかなぁ。潜在的お客様を育て、潜在的お客様に楽しい思いをさせることで、半年先、1年後、5年後、10年後、「ロイヤルなファン」になってくれる人を待つこらえ性が今の供給側にも無くなってるんじゃないのかな。


関連:音楽はだれのために鳴りひびきゃいいの - 今日も生きてる


追記:1/21/2009
<メディア論メモ>
「なるほど!!!そうなんだ!勉強になった!」と思ったid:xxxigoxxxさんのハイク発言をメモ

モバイル関係で働いていて感じるのが、今のコメントでのネットはイコールPCであり、まだまだモバイルを注視している人は少ない。
でも、モバイルは公式サイトという月額300円という有料ありきでスタートしたサービスであり、モバゲーなどの無料サービスが横行しているが、それでも有料サイトが成り立つ世界である。
更には、今までモバイルのメインユーザーが中高生と言われていたが、時代が進んで彼らが大学生、社会人へと進んできたのである。つまり、オカネを使える世代になるわけです。
1人1台が持つネット端末であり、有料サービスの概念もあり、端末のスペックも高まりつつあるモバイルメディアに目を向ける必要があるのは、働いている現場のスタッフは気付いているのだけど、社会や会社の上の人間は、なかなか気付かない。間違っても、モバイルはPCとは別世界のネットなのであるのに。
http://h.hatena.ne.jp/xxxigoxxx/9236564520873304511

*1:To:ヒロンさんヨシフミさん

*2:たとえば、作者が記事を消したり、サービスが停止になっても検索エンジンのキャッシュ・Internet Archiveウェブ魚拓や、RSSリーダーや、誰かのHDDに落とされて残る可能性など

*3:http://d.hatena.ne.jp/stilllife/20080805/1217929424

*4:ネタとして言うのは別

*5:途中退場とか酔っぱらいとかそういう明らかな迷惑行為は別。その意味で、メモとりも明らかにうるさすぎたら別。

*6:私は勉強や読書する時、図書館など静かな場所でも他人の作業音を遮断する耳栓ユーザーなので、「カツカツカツ...カササッバサという筆記音が気になってしょうがない!!」という気持ちは分かります。

*7:昔の寄席では若手が出ると一服しにいってしまうお客様やそっぽを向くお客様がいたとかいう話も沢山あるくらいなので、目の前で聞いててくれるだけでも贅沢なのでは・・?