今日も生きてる

堀井憲一郎さんと落語マトリックス制作後記

梅薫庵さんから落語マトリックスのご感想頂きました。
お返事を書きます(超ながい)。
堀井憲一郎さんのお話と「落語の過去・現在」話に言及がありましたので、そこからお話しさせて頂きます。堀井さんの新著期待プッシュ!っていう記事も書かねば、と思っていましたしね。→アマゾーンに注文しました。

落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書)

落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書)

堀井さんこと「ずんずん」は私が一番感銘を受けた「プロの落語家ファン」です。まず生の高座を重視していること、その観賞数が圧倒的であること*1、ホール落語からマニアックな会まで捕捉していること、そして落語家さんとも他の落語ファンとなれ合ったりもしない所です*2。その飄々とした雰囲気や楽しい記事、観察眼の鋭さを保ちつつ、評論家然とはせずに、自力でチケットをとったり、数分刻みのスケジュールで走って高座をハシゴしたりする落語への熱さ。まだ落語ファンになって間もない頃から、堀井さんに対しては勝手ながら「かっこいいぜアニキ!」的な敬意と思い入れがあります。堀井さんが評価する落語家さんと自分の評価している方とがかなり一致するところも、「あの人はわかってる!」的親近感を覚えるし、堀井さんのおすすめは大変信頼しています。


【楽天ブックスならいつでも送料無料】いま、胎動する落語 [ 春風亭小朝 ]』で、小朝さんが「現状を勉強していない落語評論家が昔の知識だけで落語評論を書いて、しかもろくに現在の噺家を見ていないくせに昔の名人ばかりをほめ、今の人をそれに比べてという批判的な書き方をされては困る*3」という旨のことを書いてらっしゃるんですけど、これはもう正に、今日本で堀井さんほど落語を数見ている人はいないわけです。また、同書では「落語の感想を書いてる記事で『ちょっと後半疲れがでて途中で寝てしまった』と書いてる批評家がいて、そんなことを落語の評論に書く必要があるのか」「落語評論家は年配の方が多く、自分の先行きなどに対して不安を抱えている方が公の場所で個人的ストレスを発散させているのでは、といぶかしむような記事がある」「プロの評論家として自分の体調管理や精神的環境に気を遣って公演に臨むほどの意識のある落語評論家がいてほしい」ともあります。


わたしも個人的に、シッタカ/名人命系の落語ファンにはうんざりしていて、この話に強く共感したので、現場の落語にこだわりつつ、過去・現代の落語家双方に対して愛情を持っている堀井さんには非常に好感がもてます。「こんなアホみたいな強行スケジュールで」みたいな事を冗談まじりで書いたりもしますが、けして、演者に不必要な悪印象を与えるようなことはしない気がします。落語家に対してヘンな依存心がないから、または有っても見せないからだと思います(「もっと素直に楽しめばいーじゃない!」といいたくなるようなこじらせた思い入れというか)。皮肉めいたことを言ったとしても洒落の範囲か、冷静な分析であって、けして権威的な重さを与えないというか。基本的に「楽しみに行っている」姿勢なんですよね。あの独特のちょっとふざけた文体も好きです。それこそ落語でいえば、軽い噺をサラッとしてかっこよく去っていくようなベテラン寄席芸人的味わいがあります。長年の落語ファン活動とカルチャー批評の最前線で鍛え上げられたであろう言語感覚が読んでいて心楽しい。で、そんなクールで飄々とした印象が強かった堀井さんが書かれた『【楽天ブックスならいつでも送料無料】若者殺しの時代 [ 堀井憲一郎 ]』を読んでみると、これが結構社会に対して熱くて優しい視点があって、「いやーこんな心意気があるひとなんだー!」とまた改めてしびれました。わたしがもし日本で大学生をしていたら、堀井さんのバイトになりたかったです...!


そんな堀井さんが落語本を出すと知って「ついに待っていたものがキターーーーー!」と胸高鳴りました。まだ購入していないのでなんともいえないのですが、梅薫庵さんが言及していたように、普段発表しているような現在の落語家データに基づいた内容がメインではない事に関してはちょっと肩すかしでした。TBSラジオずんずん落語』で放送されたような内容が本で読めるのをあまりに心待ちにしていたからです。しかし、これだけ感銘を受けている堀井さん、イヤ、...ずんずんのアニキが「テーマ:落語」で書いた文章をまとまった形で読めるのはそれだけでも嬉しいです。前々からの期待をさしひけば、純粋に本として100%面白いと思いますし、どう考えたってあれだけ身を削っているずんずんが、今やっている落語調査を書籍化しないわけがないと思います。とっておきにしていた楽しみが、今はまだ伸びただけ、と受け取っています。


もともと私は生まれながらにオタク性なのですが、ただ感想を書くだけでなく公演数などを含めた落語の記録をつけ始めたのは、生来の性(さが)に加えて堀井さんの影響が強いのです。だからこんなマトリックスとか作ったのも、堀井さんのデータを見て喜ぶような気質のある、わたしや他の落語仲間が「そーそーそこそこ!」「いやこの人はちがうでしょ!」みたいな話のタネになり、新しい発見や視点の元になればいいな、という思いから作りました。だから梅薫庵さんが共感と異論両方ふくめたお返事をくれたのはとてもうれしいです。


自分は基本的に今生きている噺家から入った落語ファンであり、古参落語ファンの名人礼賛には「未来の落語を殺す気か!」と反感を覚えていたし、現場命だと思っているので、現代の人をひととおり生で聞くまで意図的に録音聞くのを避けていた位なんですね。他の人に勧めるとしても、まず生の落語から入ってほしいと思いますし。でもある程度色んな人を現場で聞いた後で、昔の人の事も知ると、今の落語をより豊かに楽しめるようになるんじゃないかと。だから今は名人ものも聞きますし、好きです。ただやっぱり録音は録音で、生の人以上に録音で感動した事、する事はないと思っています。また先の記事にも書いたように、噺家さんは「上手・下手」や「名人・若手」の二項対立でとらえたらつまらないと思っています(落語に限らず何にしてもそうですが)。若い方の成長する姿や意外性を見る方が、名人の予想通りの一席より数倍胸を熱くすることがあるわけです。マトリックスも当初は現役落語家のみでした。しかし制作の途中で見せた方から「故人も入れてはどう?」とコメントを頂いたので、反映させてみました。いざ、いっしょくたにしてみると、これが系譜的な落語の楽しみ方という点でもなかなか面白い事になったんじゃないかと感じています。


最後に、白酒さんと喬太郎さんについての私感です。
白酒さんは今の所生で『松曳き』、『代書屋』、『親子酒』、『転宅』、録音で『長命』を拝聴した事があるのですけど、すごく明瞭で丁寧な落語をされる方だと思っています。しかし秋冬・技巧型の師匠方のような、聞く方も緊張して聞くという、クールで端正な落語ではなくて、小さん師匠を筆頭とするような人の心をほぐす落語だと思います。気質でいえば明るく朗らかに、どちらかというと軽めで風通しのいい感じですね。そのへんで春よりの土用/技巧中段にしました。梅薫庵さんが感性的とおっしゃったのは、明るく滑稽話の似合うようなフラの事があてはまりますでしょうか。このマトリックスを作るにあたって、「軽い・重い」問題とともに反映しにくかった要素がフラという概念です。当然ながら平面上に表現するのは難しい。そのへんは、こしらさんや白鳥師に見られるような「自由さ」を縦軸下で表したり、談志師匠に見られるような「枯れた感じ」や「毒」を横軸左で表そうとしたように、白酒さんのフラは縦軸の感性ではなく「横軸のやや左より」という季節感で表そうとしました。やっぱり下の感性ゾーンにいる人の自由さや独創性を強みにした落語とは違うと思ったからです。


そして喬太郎さんと「噺によって違うんじゃないの問題」。これは違う方からも同様のツッコミを頂きました。そう、噺によって違うといわれたらそれまでなんですけど、これにも私は色々と考えがあります。私も喬太郎さんの『心眼』を聞いたとき、すごい生々しくて怖かったのですが、圓生師匠や文楽師匠、雲助師匠や正雀師匠らの怖さとはまたちょっと違う感じを受けました。後者の皆さんの圓朝ものはやっぱり秋冬な感じ、ドライで冷やっとするような怖さなんですよ。またそのドライさ、クールさが悪の魅力的な色気を持っているとも思います。でも喬太郎さんの怪談は湿って生暖かいような、人間の醜さを人肌伝わる距離で感じるような、肉迫した怖さを感じました。秋冬・技巧の方々が、語り部的視点で淡々と怖さを出すとしたら、喬太郎さんは自分にも内在する人間の弱さ、嫌らしさを、そのまま自らを通して、より演劇的に伝えている気がします。あと喬太郎さんの色気っていうのは秋冬の人が持つような枯れた色気、飄々とした色気ではないと思います。かといって夏エリアの人ほど押しの強い攻めの色気でもない。色気はもちろんムンムンにあるんですけど、中間より少し春寄りかな、という位だと思います。彼の真面目な噺をやった時の実力も物凄いわけですが、本質的には柳家の「人を楽しませる噺家」、という寄席芸人マインドを何よりも愛していると思います。それと喬太郎さんは何をやっても陰にこもりきらない、マイナーなことをやろうとしてもポップになってしまう天性の大衆性・娯楽性みたいなものがあると思います。本人にどんな悩みがあっても、内容は暗いことを歌ってても、万人が口ずさむポピュラーソングを無意識レベルで作ってしまう歌手のような才能です。逆に談志師匠がどんなに人気があって派手な生活しててもある種のアナーキーさ、サブカルさがいい意味でなくならないであろう事や、圓生師匠が人間国宝になってもお茶の間で親しみを持たれるような人気者にはならないんじゃないかなーという所の差が、私が表そうとした落語家の季節感です。以上、私なりの感覚解説、伝わりましたでしょうか?

*1:2004-2007の4年間で観た落語5300席

*2:これは一概に悪いことじゃないんだけど、その自由な立場から物を言いやすいってのも断然あると思う

*3:以下、春風亭小朝/ぴあ/『いま、胎動する落語』p.180-182参照