今日も生きてる

死んだりするよね


女の涙は水道の蛇口って美輪様が昔おっしゃっていたんだけど、私なんかはその最たるもので、「風が吹けばあたしが泣いちゃう」って位よく頻繁にベリーオッフンすぐ泣いてしまう。どうかと思うくらい涙腺ゆるすぎ。凡庸な泣かせ番組なんか見ていて、客観的にはくだらないと感じていても、その感性と関係なく、自動的に回路の配線がつながって、システマティックに涙が出て来てしまう。たまたま最終回だけ見たドラマでさえ、瞬時に色々想像力で補って泣いてしまう。対人関係でも、「あの人に言われたこの言葉がすごく嫌で、でもそれはその人の全人格を否定したいわけじゃなくて、ただその一部である言動がすごく嫌で、それだけを的確に伝えたい。でもそういう話をしたら多分わたし泣いてしまう。頭では大した事じゃないと分かってる程度の行き違いで、それを涙ながらに訴えるのは、その人を必要以上に加害者にしていて酷すぎるから、結局うまく伝えることが出来ず、辛くない演技をしてしまう。」というややこしい状況にも陥る(本当になんて面倒臭い!)。人に面と向かって真剣な話をするときはとにかく必ず泣いてしまうので、以前弟と喧嘩した時などは、一緒の家に住んでるのに「今お姉ちゃんはこういう事を思ってます」というのをメールで伝えたくらい泣き虫ひどい。特に男の人の前だと、その人のせいじゃなくても、女である私が泣いたら「泣かせてる」みたいな構図になってしまうから、そうやって困らせるのがとても優しくなくて不本意で厭。


先だっての日曜日、一度も会ったことない方のお葬式でティッシュにして7枚分くらい、鼻の頭を真っ赤に腫らして泣いてしまって、もうどんだけなの!と思った。「すごい泣いてるけどアンタ誰?」状態。習っている踊りの先生のお母様、享年90歳のお葬式だったので、全然泣くような立場じゃなかったんだけどね..。親族や友人代表の方が語る「故人は素晴らしいひとで・・」とかいうエピソードの数々や、先生が以前私に語って下さったお話などを元にしてもう完全に想像力共感力フル稼働で鼻水だらだら涙はらはら。だって私も自分のお母さんが死ぬ事とか重ねちゃうし。人が死ぬのは本当しょうがないし、当たり前だけど、何度出くわしたって、誰が死んだって、それは当たり前にやっぱり悲しいよ。自分が先に死なない限り、お母さんの方が先に逝くわけだけど、たぶんそれは絶対的に人生が180度変わるほどの大事件で、体がしびれて頭が真っ白になるほどの喪失感を味わって茫然とするだろうな。どんなに側にいたって、どんなに何かしてあげたって、絶対「しきった」とは思えないだろうし。せめて孫の顔だけは見せてあげたいけれど・・きっと子供が出来たら出来たで、「私だけの力じゃ心もとない、一緒に育ててほしい」っていう欲が出てくるだろうし..。


踊りの先生は結婚後もずっとお母様を呼び寄せて一緒に住んでいらっしゃったし、お話からしてとてもお母さん子だったのが伺え、式においても息が苦しそうなほど子供のように泣きじゃくっていらっしゃった。私の大好きな先生。そんな先生を育てられ、周囲の人々から愛されたお母様も、きっと素晴らしい方だったのだろう。いま、そしてこれからの日々、優しい先生の胸の内はどんなにか辛かろう・・なんておいたわしい。そう思うともうだめだった..。告別の列に並ぶ間、「お悔やみ申し上げます」とか「ご愁傷さまです」とか、どんなご挨拶を言うか頭の中で反芻していたのに、先生の前に立った時には言葉に詰まって何も言えず、ただお辞儀をする事しか出来なかった。それでも、痛ましい程はげしく嗚咽していた先生が、会釈だけじゃなくてきちんと私の名前を呼んで、「○○ちゃん、来てくれてありがとう・・」と言ってくれた時には、「ううううっっっ!!!せんせーーーー!!!もうっ無理せんといて・・お願いですから、どうかご自愛ください!!!」と心の中で吠えた。で、家に帰って、自分のお母さんに「お葬式どうだった?」と聞かれ、上記のようなことを色々報告してたらまたぐしゃぐしゃ泣き出してしまって「プッ、なんであんたが泣くのー?バカみたい」と一笑にふされました。「あんた幸せな子ね」とも。うちのお母さんはわたしと相反して超サバサバしている・・。


それにしても、自分の経験上、冬、とくに年末年始は人死にが多い気がします。「冬を越せない命」とかいう言葉、しっくり来るものがあります。何にせよ諸行無常、侘しいですね。死ぬから生きることに価値がある、死ぬことは生を照らす唯一の光、だとしても。