今日も生きてる

ボクらの圓朝祭

平成18年7月26日 於:霞ヶ関・イイノホール

桂才紫「子ほめ」
立川談春「汲み立て」
柳家花緑「猫久」
橘家円蔵「心眼」
<お仲入り>
林家正楽 紙切り


立川談志黄金餅


ため息と共に体から力が抜けて、へらへらと締まりのない笑いが止まらず、あまりの胸の震えに、本来は心臓がある場所で、閉じ込められた蝶が出口を探しながら羽ばたいているようでした。


立川談志」という人の生きざまを私は徹頭徹尾愛す。
「落語」に出会わなかったら、「あなた」にも出会っていなかったのだと思うと、それは全くありえない喪失であって、いたたまれない。
私にとって「立川談志」は「落語そのもの」と比べたって輝いていて、どうしよう、もうこの気持ち、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう・・・・。


そんな熱にあてられたような想いを持て余し、ひとり抱きかかえながら、なかなか素直に家路につけず、霞ヶ関の地下道を行ったり来たり、各線のホームを行ったり来たり、違う方面の電車に乗ってまた行ったり来たり、40分そこらの道のりを2時間かけて帰った。


あのひとの笑顔、あのひとの声、きっと一生焼きついて離れない。
あなたがそこで生きていて、「己」と「世界」に押し挟まれ、独り身一つ生身の体で闘っているという事。


長患いの中耳炎で相変わらず彼の片耳は聞こえない。
「こうやってると一見元気そうに見えますがね。精神で肉体をこう、引き上げていて、なんとか今自分が最高と思っている所までね。それでそれが出来なくなったら、下がっていく前に去るしかない。もうここ一年だと思ってるんですよ。」


2度、3度、小咄のオチを先に言ってしまったり、『黄金餅』の<道中付け>で途中分からなくなってやり直し、「こんな事が続くと、いよいよ」といった。
だけど、
つっかえったって何したって、
あれはなんて美しい一時だったんだろう。


あなたの口からつらつらとこぼれ落ちる言葉たち、江戸の町並みを描写していくその言葉たち。「ああこの人は本当にこれらの一語一句、節々全部を、心から愛しているのだ」と思う。そうして長い長い時間をかけて慈しまれた言葉たちが、楽しそうに、幸わせそうに、聞く者の耳へと滑りこんでいく。まるで恩返しをするように。
落語への深い愛、『黄金餅』を十八番とした名人志ん生への思慕、立川談志としての時間を最後まで生き抜くという闘い。生身の人間の優しさと強さと格好よさ、ふがいなさと愛おしさ、そういったものの全てを包み込んだ一音一音が、こころよい響きで踊るように鼓膜を打ち、胸を強く強く締めつける。


ガラッパチな坊主の啖呵、金魚売りに歌入りのお経が楽しく、金兵衛が死体を担いで月明かりの森を進めば、木々の湿り気と夜の匂い、虫の鳴く音が聞こえてくるようだ。「黄金餅」から出て来たお金をしつこいくらいにガツガツ拾い、ふざけてお客に投げ銭する遊び心、またそれに乗ってちゃんとお客が受け取る仕草をするんだ。


高座を終えると一度お辞儀、いつものように幕を途中まで下げさせてからまた戻す。そして「あの」極上の笑顔。
こればかりは生で見た事ない人に伝えようがないが、はっきりいってこの笑顔を見るためだけでも家元の会は行く価値がある。
それくらい奇跡のように魅力的な笑顔。


高座前の「迎え手」も拍手と歓声で出囃子が聞こえない程だったけれど、それ以上の盛大な「送り手」に照れ笑いし、「まあ精一杯やりましたよ」「最後にもう一つ小咄するから、終わったらすぐ幕閉めちゃって」と恥ずかしそうに言い捨て、小咄『アフリカン・ルーレット』を打っちゃって、一礼、またあの笑顔で手を振ってから、さらに幕が閉じ切るまでの深い礼。


その美しい時間の儚さ、そして儚く消えていくからこその美しさ、それが幸せすぎて切なくて、愛おしすぎて泣きそうだった。