今日も生きてる

立川志らく『全身落語家読本』『らくご小僧』

全身落語家読本 (新潮選書)

全身落語家読本 (新潮選書)

らくご小僧

らくご小僧


志らく師匠が大好きすぎます。志らく師匠が大好きすぎます!!
芸だけに惚れている域ではないのです。それ以上にこの人が落語にそそぐ愛と志と情熱を慕っているのです。


先日のオルト嵐山亭志らく花緑二人会で物販があったので手始めに二冊購入。『志らくのピン』に行ってもナカナカ物販にありつけなくて、直で買える機会を待ちこがれていました。何度くじけて本屋で買いそうになった事か。他の人の会でもそうだけど、作品がある人はもっと積極的に物販やって欲しい・・。新宿紀伊国屋でのガマンが悩ましい!


まずは落語が休み*1だった10日の夕方から『全身落語家読本』を読み始めました。これが止まらなくって、止まらなくって、お腹空いてもごはんの用意に時間をかけるのが勿体なくて、一人なのに店屋物を頼み、結局夜10時くらいに読み終わるまで食事休憩含めて4、5時間くらい居間のソファから片時も動かずにページをめくっていました。


読了したといっても、本書の4割くらいを占める192席に及ぶ「ネタ論」に関しては、オチを知りたくないので聞いた事のある噺だけ読みました。既に聞いている根多はその中ではだいたい110席ほど。ただし聞いた事のある噺でも談志師匠の『寿限無』のオチだけは格別に面白くて、もう『寿限無』なんてまずやってくれないだろうけど、これは生で聞きたかったなぁ・・。


各名人論にはお勧めのネタが、各ネタ論にはおすすめの名人がそれぞれ書いてあるので、名人の音を聞き始める時の筆頭参考書にしようと思います。志らく師匠への愛をこめて道のりを踏襲したいので、まずは幼少の志らく師匠が落語に目覚めたきっかけ・三代目金馬の『薮入り』、そして落語家になる決意をさせた人、十代目馬生の音から聞き始めたいです。


そう、志らくさんに直接落語家になる決意をさせたのは立川談志ではないのです。その当たりの出来事は『全身落語家読本』にも少し出てくるのですが、幼少時から落語家になるまでの自伝である『らくご小僧』の方で<その事件>はクライマックスの一幕として描かれます。


『らくご小僧』は両国寄席の行き帰りの電車の中から読み始め、夜寝る前には8割方読み切り、今日13日は美容院に行ったので、そこで後の2割を読み切りました。これがまずかったんです。美容院でしかも人前、しかしこれが涙なしには読めたものじゃないラストでした。


子供の頃から熱烈な落語ファンであった志らく師匠ですが、大学生のある日まで落語家になろうとはまったく思っていませんでした。しかし運命は彼を呼んだのか、馬生師匠の最後の高座を最前列のド真ん中で見届ける事となったのです。体の自由も効かず、ほとんど声も聞こえない、それでも落語をやり続け、限界と闘い続けた馬生師匠の姿を見て若き志らく師匠の心に火がつきました。「この人の弟子になって落語家になろう」そう決意したのも束の間、なんとそれから十日後、馬生師匠はこの世を去られるのです。


喪服もろくに持っていなかった志らく青年は、それでも自分の決意を師に告げたい一心で、馬生師匠の告別式へと向かいます。焼香をしながらたまらず「弟子にしてください!弟子にしてください!」と泣きじゃくる志らくさん。読んでる私も涙ぼろぼろ、これ書いてる今も思い出しぼろぼろ。


口惜しさと情けなさのあまり、落語なんて好きにならなければよかったとさえ思いながら、居たたまれない気持ちでそのまま池袋演芸場に立ち寄ると、立ち寄るとです、主任が立川談志なんでございますよ!


その日談志師匠は落語をやらず、ただただ馬生師匠の想い出を語っていて、しびれを切らした心ない客が「談志、落語やれ!」と野次ったそうです。すると家元は「今夜は落語をやりたくないんだよ。勘弁してくれ」とお客に詫びたんだそうな。その情愛の深さ、「こんな日にはけしていい落語なんて出来ない、そんなものをやるのは落語という芸術にも失礼だ」という心意気に惚れ、「馬生亡き今この人についていこう」、と決意したんだそうです。


ここ読んだ瞬間、もう噺家という人々は宇宙一かっこいいと思いました。この本を読んだ私がもし男だったら、うっかり入門してたかもしれません。格好いい。家元も志らく師匠も、かっこよすぎです。


『全身落語家読本』の巻末には<卒業試験>という項目があって、落語家と落語に関する問題集なのですが、これが結構難しい。落語家は目指さない変わりに、将来きっと「90点以上:落語の本質を判っている人。『野ざらし』=「骨ぅ」と言える人」に到達する落語通になってみせます。90点以上とれなくても『野ざらし』=「骨ぅ」とは言えるのですけど。

*1:落語を聞きに行くのが本業ですからね(笑)