今日も生きてる

骨追い讃歌

なんとなくすこし、なんともいえない気持ちになっている。
なんとなくすこし、とまで書いて、実際になんと言っていいかわからなかった。

なんというか私は、間が悪いというよりも、悪い予感がよく当たる。
なんとなくざわざわしていると、やっぱりそこで何かが起こっている。
またはこれから起こる所だったりする。
それでやっぱり彼女の身には起こったし、彼の身には起こっていた。
(念のためにいえば、ここでいう彼も彼女も色っぽい話じゃなくて、大事な友だちの話ね)

好きな映画「スワロウテイル」の好きなセリフ、

She's still chasing after the bone you've thrown.
(ワンちゃんはあんたが投げた骨を まだ追いかけてるのよ)
Is that what you call...the power of love?
(そういうの なんて言うの?....愛の力?)

をなんとなく思い出して、わたしの生き方は正にそれだ!と思う。
この場合嫌味でなく、かなりポジティブな意味で。
いろんな人が投げた骨を、その匂いの記憶を、後生大事にたいせつにして、追いかけて生きている。
裏切りとまでは行かないまでも、取捨選択があり、捨てたかわりに、期待に答えなかった分、ほかのことで筋を通そうとか。

本当は黙っていたい気分だけど、書きたいのも確かなんだ。

「キミは追いかけて光るヒトではないと思う。」
と、彼は言いましたが、やっぱり追いかける方が性に合っている気がする。

光るためには、ヒトより孤独を味わう必要も、
あるかもしれない。
でも、それを引き受けるしかない。
今は。

あの人に貰った言葉は全て、今でも響いている。
やはり彼は人の心に届く言葉を持っているはず。
そもそもサイトを始めたのだって、
「君の書いたものなら読める」ってあの人が言ったからだ。
本人は憶えてなさそうだけど、たとえ憶えてなくても、未だに一番読んでもらってるので、繋がってるよね、微かにでも、生活の中で袖触れ合ってる、という、ただそれだけですごく嬉しいものだ。

もちろん、多くの友だちといっぺんに離れて、丁度いい生存確認の場所になる、繋がれる場所になるからいい機会だ、とも思った。作ってすぐあの人以外にも読者を招いたし、最初のきっかけが彼の発言であっただけで、ほかの大事な人にも、いくつも文章を書いてきた。今だって、これだって彼のためだけではない。

きっと当時ブログがあったら楽だったんだろうけど、2001年のことだから手打ちHTMLで、いまだに、逆に新しいことを勉強するのが面倒で変わってない。

今も骨を追っているんだ。いくつもの骨を同時進行で。
新しい骨を投げる人にもまた出会って、やっぱりこんな生き方しか出来ないという気がするし、それが貧しいことだとは思えない。
きっと、これが性に合ってるんだ、と感じる。

うまく言えないことばかりだ。
でも言葉にしてそれが伝わらなくても
祈りにはちがいない。
なにかが生まれる。
なにかは動く。
なにかが残される。

言葉に力あれ。
祈りに光あれ。

Blow out the candle I will burn again tomorrow.