今日も生きてる

オタの否定は文明の否定だ

ホシヒコさん経由で見に行った、
監督不行届オタ嫁座談会
面白かったよ。
本書の庵野監督のメッセージも死ぬ程いいけど、この座談会にあった、安野さんが、「今まで『普通』の男子と付き合ってたので、一日中漫画読んでた日は『エクササイズしてた』とかいって嘘ついてたけど、監督にはそんな嘘つかなくていい。むしろ私が『女帝』読みたいっていったら買って来てくれて、二人で全巻読んで、その後夜飲みに行って『女帝にカンパイ!』とかいうのが出来て」
つー話が非常によかった。

もう最近別に、自分は恥ずかしいとかもないですオタ。社交とネタの一貫として「恥ずかしい」という振りをしています。

それに、アカデミックな方面に身を置く人間として声を大にして言いたいことは、「オタの否定は文明文化の否定ですよ」ってこと。人間にオタ属性がなかったら、文明だの文化だのあり得ない。生産する側も、それを支える消費する側も。

今ここでは、オタという言葉を広義でいう文化的マイノリティみたいな意味で使うけど、何にも知らないでキレイぶるのはまったく下らないよ。

例えばさ、カラヴァッジオはロリでゲイだったから作品によく柔肌の美少年が出てくるし、ドラクロワとかだって、絵を描くために本物の死体と何ヶ月も暮らして、腐って行く過程を研究したりしてる。そんなのは現代人がやったら頭おかしいって言われるけど、じゃあ、時の洗礼を受けたら物事の本質は変わるのか?ってこと。
そういうのを鑑賞して素晴らしいとか言ってるハイソの人が、現代のアヤウイ人とかを見下すのにはアッタマ来る。
ダーウィンとかみたいに理系の人だって、最初は昆虫とかミミズを何十年も見続けたりしてるんだから、『異常』だって言われてもおかしくない。

普通なんてない。何が時を経てスタンダードになっていくかなんて誰もわからない。皆ちがって皆いいじゃないねえー。
なぜか説教くさくなった。ヨッパライみたい。青いことを言ってしまいました。今日のつぶやき。